前回の投稿、公式連載「はじめが大事?」の続きを書かせてもらいます。
修士2年目の夏前の研究会でのネガティブな研究結果発表の後、渡辺公剛先生がベンチにきて、「あなた、もう飽きたかい?」とおっしゃられました。植物ミトコンドリアにおけるRNAエディティングの試験管内実験がうまくいかなかったこともあり、博士へ進学することを希望していた私は、内心「ほっと」し、動物ミトコンドリアにおける遺伝暗号変化の分子メカニズム解明にテーマを変えることになりました。今でも、その時の状況、自分の心境は鮮明に覚えています。
毎日を何気なくお気楽に過ごしていた私にとって、御縁で伴侶となった塩見春彦についてアメリカに渡ることに何ら抵抗はなかった。博士過程への進学も魅力的だったが、塩見曰く「留学は数年」ということだった。博士は日本に帰ってきてからでもいいし、旦那が働いているあいだ、私はテニスをしたりNYやDCに行ったりで、海外生活を満喫しようと密かに目論んでいた。が、アメリカに着きGideonに出会ったとたん、「家に毎日一人でいても退屈だから僕のラボに来て仕事しなさい」といわれた。彼もNorthwesternからUPENNに移ったばかりだったし、人手を欲していたのは確かである。私の淡い目論みはGideonの一言で脆くも崩れ去ったが、こうして私は「RNA」に出会った。そしてお互い飽きもせず、未だにお付き合いさせていただいている。
大学院入試も終わり、研究室に配属されたのは1992年9月。最初に与えられたミッションは、『形態誘導因子エピモルフィンのファミリー分子を同定せよ』でした。今なら配列をBlastに投げて3秒で終わる作業ですが、当時は縮重プライマーを用いたPCR→PCRフラグメントのクローニングとアクリルアミドゲル電気泳動でのシークエンス→部分断片を用いたλgt10ファージライブラリースクリーニング→全長をつなぎ合わせるサブクローニング、と、それなりに手間のかかる仕事でした。とはいえ、技術的には確立している実験ですし、やる事は決まっていますから、体力だけは自信がある人間向けの実験であったと言えましょう。そして誰しも20代の頃は体力に自信があるものです。
私が研究室に所属して最初に与えられたテーマは、カブラハバチ(膜翅目)の精子形成過程の観察である。膜翅目昆虫は半数倍数性というかなり変わった性決定様式を持っており、二倍体の個体は雌となり、半数体が雄となる。ところが、雄の配偶子である精子はもちろん半数体なので、半数体の生殖細胞から半数体の精子が出来るはずである。これらのことから、膜翅目昆虫の精子は減数分裂において、ちゃんと「減数」していない(還元分裂でない)ことが予想されるが、詳細な解析は行われていなかったと思う。わたしの最初にやったことは、カブラハバチの精巣のフォイルゲン染色(核染色)と、精巣のパラフィン切片を用いた細胞の形態観察である。カブラハバチの精子形成における減数分裂を観察することにより、非還元的減数分裂という面白い現象の詳細を明らかにし、さらには還元分裂を行う雌との比較により、減数分裂の制御メカニズムを探ろうとするものであった。
と、エラそうに書いたが、実はこのテーマ、あまり進まなかった。
紆余曲折な研究人生を歩んできたのですが、初めてRNAに関わった仕事を紹介したいと思います。
博士課程のテーマの一環として取組んだのが、細胞内におけるmRNAの蛍光1分子観察でした。当時は、阪大の柳田敏雄研で師匠の船津隆先生を中心として、水溶液中の蛍光1分子観察が試験管内(顕微鏡下の観察チャンバー内)で、世界で初めて成功し、1分子生理学の黎明期でした。次は、細胞内、という事で、新設の船津研では、試験管内におけるシャペロニンGroELの蛍光1分子観察(当時:東工大の吉田賢右先生、田口英樹先生との共同研究)と平行して取組んでいました。研究室の立上をしつつ、新規テーマ2つの立上という事で(シャペロニンの方は当時4年生だった上野太郎さんと一緒に立上)、てんやわんやしていた記憶があります。
私の父は高校教師で物理と地学が専門です。山や川に遊びに行っては、石を割って、これは、砂岩だとか、花崗岩だとか、この地形はどうのこうの、と必ず解説してくれました。夜空を見上げては、星座や一等星の名前を教えてくれたり。なので、物心がついたころには自然と科学に興味を持ちました。なんで?どうして?と聞くととても丁寧に教えてくれる父親で、おかげで子供のころはいろんなものに興味を持ちました。自宅から父の高校までは、30 kmぐらいあるんですが、夏休みには父と兄と三人でよくサイクリン グで行きました。父の理科室にはいろんなものがあって、とっても刺激的でしたね。よくテレビででんじろうさんがやってくれるような、静電気を発生させる装置や、レーザー光線を出す装置とか、金属ナトリウムを燃やしたり、簡単な化学実験もやってくれました。いまでも鮮明に覚えてますね。
今でこそ、私はしれっと「RNAの専門家」のような顔をしていますが、私とRNA研究との出会いは、ほぼ偶然と言えるものでした。私のいた学科では、学部4年生時の研究室配属に教員は介在せず、学生の間だけで決めることになっていたのですが、当然、研究室によって希望者が多かったり少なかったりするので調整が必要になります。私達の学年では、長時間の議論の結果、(こともあろうか?)希望者が定員を超える場合にはトランプを引いて、出た数字が少ない者から順に配属できるという方式を採用することになりました。