ちょうど今ラボの引越しでいろいろ昔の荷物をひっくり返して整理、というか片っ端から廃棄しているのですが、冷蔵庫の奥の方から、懐かしい品物が出てきました。SIGMAですっ!という自己主張をこれでもかと伝えてあまりある赤い小箱に入った試薬の名はPKH26。留学中の仕事で大活躍した細胞ラベル用の色素です。
留学して最初に取り組んだ研究テーマは、受入れ先のラボで動いていた神経軸索ガイダンスの実験系をほぼそのまま使い、取り扱う分子だけちょこっと取り替えて知見を広げる、という類のものでした。確かに仕事は進むし、予想された結果は出てくるものの、逆に言えば予想された結果しか出て来ず、数カ月してモティベーションは急降下。二番煎じのお茶を飲みにわざわざイギリスまで来たのか、ん、紅茶か、と、気晴らしにパブに行ってもついついネガティブな思考を紛らわそうとくだらんことを考えるばかり(いつものことですが)。パブで飲むせっかくのAbbot aleも苦い味しかしなかったのですが、留学前にラボの後輩のU君の下宿で呑んだくれた際、誰もが一目置く教養人の彼が「カエルのラボに行くんなら視交叉の謎を解いてくださいよ」と言っていたのをふと思い出しました。オタマジャクシの目は顔の両側についているために単眼視しかできないのですが、変態期になると両眼視ができるようになります。これに伴って両眼視を可能にするような神経回路が新たに出来上がるのですが、その回路がどうやって作られるのか?という話ですね。具体的にはオタマジャクシの視神経は全て視交叉と呼ばれる場所を乗り越えて反対側の脳に投射するのですが、変態期に造られるカエルの視神経の神経細胞の一部は視交叉を乗り越えずに同側の脳に軸索を伸ばすようになります。面白いでしょう?
いやホント面白くて、こいつをどうやって料理してやろうかと色々考えていると、Abbot aleのうまいことうまいこと。毎晩のように一人で、あるいはScottishの同僚とパブに繰り出し、作戦を練っていました。発生生物学的な考えでいくとこれは軸索を伸ばす側の神経細胞の性質が変態期に変わったか、軸索の通り道である視交叉の性質が変態期に変わったかのどちらかである、ということになるのですが、それは単純な移植実験で明らかにすることができます。つまり、カエルの神経細胞をオタマジャクシに移植してやった時に、カエルタイプの回路ができるのか、オタマジャクシタイプの回路ができるかを見てやれば良いわけですね。すごく素朴な話です。なら、とうの昔にそんな実験やられていそうなものなのですが、どんだけ文献をひっくり返してみてもそういう報告はありません。アフリカツメガエルの視神経の発生にかけては生き字引みたいなラボのボス夫妻、ChristineとBillに聞いても聞いたことないとのこと。確かに、そもそもカエルの眼はオタマジャクシの体の数倍の大きさだし、そいつを移植するという発想自体crazyで誰もやっていなかった、ということだったのかしらん。そこで、いろいろ考える前にとりあえずやってみようということで実際にやってみてわかったのは、移植そのものはカエルの眼の新生神経細胞のところだけちぎってやれば勝手に取り込まれるので、わけもありません。
ところが移植した神経細胞をラベルする、このステップが意外と難しいのですね。通常、神経細胞のラベルではDiIという色素がよく使われます。DiIは脂溶性の蛍光色素で、結晶を組織に置くと短時間に膜に取り込まれ、とても綺麗にラベルされる上、細胞が分裂しなければかなりの長期間安定にラベルが持続します。これがどういうわけか、オタマジャクシの眼から作った移植片は綺麗にラベルされるのに、カエルの眼から作った移植片は細胞体のところはラベルされるものの、そこから伸び出した軸索のところまでラベルが広がっていかないのです。脂質の組成が違うのかなんなのか原因はわかりませんが、とにかく使えんもんは使えん。他にもCFDAとかCMFDAとか細胞質をラベルするタイプの色素も含め、手に入る色素は片っ端から試したのですが、どれも綺麗に染まらない。八方ふさがりだった時に、そういえば大学院生時代にお世話になったS村さんがPKH26を使っていたなあ、ということをふと思い出して、購入したのが、冒頭のPKH26です。
PKH26はDiIと脂溶性の蛍光色素という点では全く同じなのですが、塩を含む溶液中に希釈するとすぐに大きな結晶ができてしまうので、浸透圧を合わせた塩を含まないDiluent Cという溶液に希釈し(Diluent AとかBはないのかとか余計なことは考えない)、細胞もDiluent Cで一回洗った後ラベル溶液に2-3分浸けておくと、とても綺麗に染まります。で、ダメ元でカエルの視神経をとってきてこいつでラベルしたものを移植すると、、、
できた!!
移植片からすーっと伸びる、投射先の視蓋まで綺麗にラベルされた数本の軸索を見た時の喜びは、今でも忘れられません。
一旦実験系さえ出来てしまえばあとは数をこなすだけ。移植実験をやりまくってオタマジャクシの視交叉にはカエルタイプの神経回路を作る能力がないことを明らかにすることができました。その後、変態期になって視交叉で初めて発現が始まる分子に的を絞って「当たりかどうかわからないけどとりあえず試してみよう」という軽い気持ちで試した分子が一発ツモで大当たりして(そんなんばっか、、、)、無事に論文にまとめることができました。本当は一度でいいから狙いをつけてスクリーニングの系を立てて狙い通りに答えを見つけてみたいのですが。。。
このPKH26。思い出の蛍光色素ということで帰国する時も荷物に詰め込み、その後度重なる引越しを生き延びて、16年の長きにわたり、冷蔵庫の中で生息し続けていたことになります。ここまで一緒に来たのだから北大にも持って行こうかな、とか一瞬思ったのですが、大学院生の時に使っていた思い出のプラスミドとかと一緒に全部捨ててしまうことにしました。創造は破壊から始まる。これから何を始めてやろうか。今とてもワクワクしているところです。